オズ王室年代記編者(Royal Historyan)
初代年代記編者
ライマン・フランク・ボーム(Lyman.Frank.Baum)
1856.5.15生-1919.5.6没
ニューヨーク州チッテナンゴ(Chittenango)生まれ
父ドイツ系アメリカ人、母スコットランド系アイルランド人
9人兄弟の7番目として誕生
父親がペンシルバニア油田で成功したので裕福な家庭で育つ。
心臓が弱く家にひきこもりがちでした。空想好きなことを心配した両親は12歳に陸軍士官学校に入れますが、
あわずに二年後家に戻ります。
家に帰ってからは印刷に興味をもち父が印刷機を買い与えると、弟に手伝わせて
同人誌を発行します。
また舞台に興味を持ちはじめました。
青年期には役者を志したものの衣装をだまし取られ、失望して生地屋の店員となります。
20歳のときにハンブルグ・チキンの繁殖・育成を始め、24歳にはハンブルグ・チキンの業界紙を立ち上げます。
また舞台への魅力は失っておらず脚本家としても活動をします。
そこで父親はボームのためにニューヨークのリッチバーグに劇場を作り、
ボームは歌もとりいれた劇を興行し自らも舞台に立ち好評をえます。
このころ人生の伴侶も得ました。
ところが、ここで劇場が全焼するという災難にみまわれ脚本や衣装などをことごとく失います。
1888年ダコタへ引越し、雑貨店を開店したもののお金のない客にも掛売りをしたので結局は倒産します。
そこで妻と息子4人をつれシカゴへ移り、イブニングポストの記事を書く仕事につきます。
またショーウインドウというウインドウディスプレイの本も編集します。
この本には動くぬいぐるみや人形など夢のような世界がのっていて
当時のデパートは参考にしてショーウインドウを飾ったほど好評でした。
1897年にはマザーグースの散文を集めて編纂し発表すると好評で、ようやく苦しい生活をぬけだします。
1899年にはシカゴの記者クラブで出会ったデンスローと組んでファザーグースというナンセンス詩集を発表するとこれまた好評で子供の本のベストセラーとなります。
翌年1900年には『オズの魔法使い』を出版しまたもやベストセラーになります。
ボームは説教や教訓、悪いことをするとこうなるといった
ことは教会や学校など別の場所で教わることができるので、
子供たちにとってただただ楽しめる本を提供したいと綴っています。
ボームとデンスローは三度目のベストセラーをねらって「Dot and Tot of Merryland」を出版しますが失敗し、
以後二人が組むことはありませんでした。
デンスローが積極的で快活な人物だったのにたいして普段のボームはおとなしいタイプだったそうで、
ユーモアのセンスもことごとく違ったといいます。
その後は『オズの魔法使いを大人用の劇場版(風刺劇)』として興行し注目を集めました。
ボームは別のファンタジーも執筆したいのでオズをやめようと考えた時期もありましたが、
読者からは熱烈にオズの続きをもとめられたこと、興業の失敗による借金問題などの要因で書き続けられます。
ボームは経理にはうとく舞台に対する情熱はたびたび経済的危機を引き寄せますが、オズの魔法使いなどの著作権を売ることでまかないました。
途中から妻が財産管理を始め、ボームは苦手なことから解放され執筆にはげみます。
カリフォルニア、オズコットでは執筆とガーデニングの日々をすごします。
ガーデニングはなかなかの腕前で作品はコンテストで何度も入賞したそうです。
1914年ハリウッドに映画製作会社設立。しかしこの会社はうまくいきません。
心労がたまったのでしょうか、1915年5月5日心筋梗塞で倒れ
妻には"Now we can cross the Shifting Sands." と告げ62歳の生涯をとじたとのことです。
(Baum's bankruptcy; Ozcot.より)
二代目年代記編者
ルース・プランリー・トンプソン(Ruth.Plumly.Thompson)
1891.7.27生-1976.4.6没
ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。
ハイスクール時代に自作のおとぎ話が子供向け雑誌に掲載されます。
卒業後大学にすすむ奨学金を得ることができたのですが、父親が亡くなり、兄も第一次大戦中に亡くなったことで
母親が荷重のストレスをかかえているのを見たトンプソンは家計をささえることにします。
フリーのライターになり、フィラデルファイアのPublic Ledger誌に寄稿していきます。
次第に認められ日曜の子供コラム担当として雇用されます(1914年から1921年)。
トンプソンの記事はオズの出版社Reilly & Lee社社長の目にとまり、オズ続編執筆の依頼を受けます。
出版社は移行がスムーズにいくように、ボームの名前も用いて出版します。
トンプソンの紡ぐ物語は、ボームの紡いだ物語と同様に主人公が旅にでてかわった国に迷い込み捕らわれ
その国のならわしを強要されのがれ出て自分の幸せに出会うといったパターンですが、
ロマンチックなラブストーリーの要素が多分にあります。
少年の活躍が目を引くのも特徴です。
1939年MGMがオズの魔法使いの映画を企画したのを機に、トンプソンはオズのチャンスがきたと感じ
ディズニー映画社に働きかけます。ところがMrsボームはディズニー社からの申し出を断り
オズの権利を他の製作者に手放してしまいました。
トンプソンの立場は一転しオズ王室年代記編者の辞退を余儀なくされます。
以後他の児童物語を書き、生涯児童文学に身を捧げました。
三代目年代記編者
ジョン・R・ニール(John R. Neill)
1877.11.12生- 1943.9.13日没
ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。
オズシリーズ第2巻から第36巻のイラストレター。
ハイスクール新聞にイラストを載せたのが最初の仕事であった。
その後美術を学び新聞のイラストレターとして仕事をはじめる。
オズの第二巻からオズシリーズにたづさわる。
ニールの描いたドロシーは
髪型もスカート丈も短く活発な少女で当時のおしゃれな少女として描かれます。
トンプソンがオズ執筆を辞退したあとは第34巻から36巻の話も手掛けました。
現代的な感性をもつニールは、テクノロジーを使ったものが話に出てくるのが特徴です。
また文中では言葉遊びをたくさん載せてでたらめを楽しんでいます。
三人の娘をもつよき父親でした。
(OZ wiki)
四代目年代記編者
ジャック・スノウ(Jack Snow)
1907.8.15生- 1956.7.13日没
オハイオ州ピクアPiqua生まれ。
オズの熱烈な読者でスノウが12歳の時にボームが亡くなるとオズの続編を書かせてほしいと出版社に申しでたほどです。
この時申し出は断られたましたがオズへの探求はつづきます。
ハイスクール時代からラジオ作家としてデビューをし、NBC(National Broadcasting Company in NY)で活躍。
オズへの情熱は常にもちつづけ、ついに夢がかない1946年と1949年に合計2冊のフェイマスストーリを執筆します。
スノウは短編でオズの殺人などミステリーも書いていますが出版はされませんでした。
オズにでてくる登場人物を説明したWho's Who in Oz(1954年)はオズをたのしむアイテムとして喜ばれました。(wikipediaより)
五代目年代記編者
レイチェル・R・コスグローブ(Rachel R. Cosgrove)
1922.12.11生- 1998.10.10没
メリーランド州ウエスタンポート生まれ。
コスブローグの一作目『The Hidden Valley of Oz』はReilly & Lee社から出版されましたが
二作目の『The Wicked Witch of Oz 』はオズ本が売れなくなったことから出版承諾を得ませんでした。
コスブローブが書いた作品は子供に力点がおかれいまや成人となった元々のオズファンにはうけなかったようです。
しかしこの本も40年後の1993年にThe International Wizard of Oz Clubより出版されています。
オズとはべつに恋愛小説やミステリーなど生涯において40冊の本をこの世に残します。
1954年に結婚しニュージャージーのブリックで生涯を閉じました。(wikipedhiaより)
六代目年代記編者
bau
エロイーズ・ジャーヴィス・マグロー(Eloise Jarvis McGraw)
1915.12.9-2000.11.30
ローレン・マグロー・ワーグナー (Lauren Lynn McGraw Wagner)
1944生
オレゴン州の親子。
エロイーズは児童文学では有名な作家。「A Really Weird Summer」でエドガー賞受賞。
オレゴン州ポートランドに暮らす。二児の母。ジャーヴィスは子供用百科事典の伝記を書くように依頼をうけボームを選びます。
さっそくReilly & Lee社に情報提供をお願いしボームの伝記が発売されます。
このとき出会ったReilly & Lee社の編集者からオズの原稿を書きませんかと提案され
親子で構想を練った草稿が『Merry-Go-Round of Oz』で40巻目のフェイマウスストリーとして出版されました。
その後二人はフェイマスストリーではありませんが、「Forbidden Fountain of Oz(オズの禁断の泉)」も共著で書いています。
(wikipedhiaより)